1. ナノカモ
  2. 映画とドーナツ
  3. シン・ゴジラ レビュー
© 2016 TOHO CO.,LTD.
映画とドーナツ

シン・ゴジラレビュー

投稿時間2016.08.17シェア数7

ぼくは恐竜とか怪獣が大好きな子どもだった。
ウルトラマンだったらレッドキングやブラックキング、エレキング、ゴモラみたいないかにも“怪獣”っていう二足歩行の恐竜タイプが特に好きで、世代ではないのだけど怪獣だらけのウルトラQもレンタルビデオで片っ端から見ていた。
ペギラとかトドラが好きだったのを覚えてる。

そんな少年時代を過ごしていたので、もちろんゴジラも大好きだった。

ミレニアムはまったく観てないのだけど、平成シリーズは1984以外ぜんぶ観たし、昭和シリーズもヘドラ、ガイガン、モスラ、あとは大決戦、大進撃、大戦争、総進撃、決戦とか付くものはだいたい観た。ストーリーは覚えてないけど……!

だので、ぼくにとって怪獣っていうのは怪獣と戦うものであって、ヒーロー的で、あこがれの対象だったんだよね。そんなあこがれをひっくり返したのが、先月公開された「シン・ゴジラ」だったんだ。

どんな話なのか

あらすじ

ゴジラ現る。その時、日本人はどう立ち向かうのか。

これが新しいゴジラ

そんなに極端なネタバレはないと思うんだけど、予告映像もネタバレだと思うくらいネタバレに敏感な人は以下は読まない方がいいかもしれない。
面白かったところを書こうとするとどうしても直接的な表現になってしまいがちなので、ご容赦いただきたい。

怖いゴジラ

最初に書いたとおり、ぼくにとってゴジラはヒーローで憧れの存在だった。ほかの怪獣と戦うクールなモンスター。

アメコミでいうとハルク(ぼくはハルクも大好き)に似てる。決して人類がコントロールできるような存在ではないのだけど、無敵に他の怪獣をやっつける最強さがかっこいい。そして、少しだけ感情が見えるユニークさも持っている怪獣。
それが、ぼくにとってのゴジラだった。

でもね、「シン・ゴジラ」の“ゴジラ”はぜんぜん違う。とにかく怖いのだ。不気味で、いびつで、感情が見えず気持ちが悪い。おそろしい目で人を見下ろして、蹂躙するだけの悪魔だった。



そんな悪魔ゴジラを見ながら「なんでぼくはゴジラに怯えなきゃならんのだ」って気持ちになってはじめて気づいた。ぼくは完全にゴジラをなめてたんだ。

2014年のギャレス版「GODZILLA ゴジラ」でもゴジラは神扱いで救世主的だったし、平成ゴジラも良いやつ感すごかったから、すっかりそんなつもりで彼を見ていたんだよね。

「シン・ゴジラ」は、そんな平成ゴジラ世代の感性を強烈に破壊してくれた。1954年の初代「ゴジラ」を観た当時の映画ファンと同じ気持ちになれていたような気がする。

“恐ろしさ”こそがゴジラの本質であり、面白さだったんだってことがやっと分かった。個性的で、生物としてのストーリーがあって、さらに不気味なほど恐ろしい。それがのがほんとのゴジラなんだってこと。

この新しいゴジラが今後どうなっていくのか楽しみであり、不安でもある。このまま“怖いゴジラ”で突き進むのか、平成シリーズのような vs ゴジラになるのか……あるいはもっと想像しえないゴジラになるかもしれない。子どもが喜ぶのであればハム太郎と同時上映するようなやつになるのかもしれない。

いずれにしろ、新しいゴジラの造形や存在感にグッとくるものがあったってことだけは言いたい。かっこよかったよ。

スピーディーな会議につぐ会議

そんな“怖いゴジラ”をやっつけるべく、日本の中枢が繰り広げる会話劇ならぬ会議劇も面白かった。

政府首脳、政府高官、官僚によって早口で繰り広げられる丁々発止のやりとりは、やきもきすると同時に妙に爽快でクセになる。ほとんど何を言っているか分からないのに気持ちいいんだよね。難しい言葉でああだこうだ言い合って決定するっていうプロセスにカタルシスがあるのかもしれない。わかんないけど。

会話劇の内容は綿密な取材に基づいたもので、たとえばゴジラに対応する際の法整備や避難対策といった現実的な問題に関しても、日本国家において実際に発生しうる懸案が反映されているのだそう。

また、会話の内容についても、実際に政府高官、官僚らの会議の様子をそのまま劇中で再現しているのだとか。長谷川博己さんが本物の会議の映像を見ながら演技したと言っておられた。

これら人間側のリアリティがあるからこそ、ゴジラのリアリティが増し、さらにゴジラへの恐怖が増すのである。虚構を本物に昇華するための演出が、会話劇であり、連続する会議だったんだろうなと観終わって思った。

壊されるぼくの街、東京

そして、大いにリアリティと恐怖を感じられたのは、舞台が東京だったからなのかもしれないとも思った。

ぼくは東京に住んでいて、ゴジラが最初に上陸した大田区蒲田に友だちが住んでいる。東急プラザ蒲田の屋上にある「屋上かまたえん」の観覧車から街を一望したこともあった。

ゆえに破壊される街に対する喪失感がより大きかったように思う。もし、ぼくがまだ盛岡に住んでいたとしたら、なんとなく他人事になっていたような気がする。

街を蹂躙するゴジラを見ながら、そこに住む友だちのことを考えながら「ああ、あいつの家ぜったいやられてる。死んだ。うわー、ぜったい死んじゃってる」って心のなかでつぶやいた。

蒲田のタイヤ公園、タイヤ製のゴジラが居る
蒲田のタイヤ公園、タイヤ製のゴジラが居る

ゴジラに多大なダメージを与えた無人在来線爆弾だってそうだ。そもそも盛岡に住んでいたら電車というものに馴染みがない。あそこは自家用車かバスか自転車の世界だった。

もしぼくが東京に住んでいなかったら、ここまでゴジラを恐れなかったし、映画としてどこまで楽しめていたか分からない。ほんと東京に住んでいてよかったと思った。

好きにすれば

劇中にもたびたび登場する「好きにすれば」とか「好きにしろ」みたいな台詞。すごく心に引っかかる。とてもいい台詞だ。ぼくが言われたい言葉ナンバーワン。

好きにするっていうのは、とても難しい。好きにするためのパワーを蓄えなくてはいけない。

地位とか名声とか実績とか、あとは単純に腕力とか、そういったものがないと好きにできない。世の中、思いどおりにいかないことばかりだ。ぼくらはモノ、金、人に影響され、コントロールされて生きている。

だからこそ誰かが好き勝手やっている姿に憧れ、そこに希望を持つ。

そういう意味で言うと、恐ろしくて怖い新しいゴジラも、ぼくにとってはやっぱり変わらず憧れられるヒーローだった。そして、そんなゴジラ映画を好きに撮った庵野監督も最高にかっこいいなって思う。

ぼくもどうにかパワーを蓄えて、もっともーっと好きにしたいなって思うよ。